兵庫が生んだ沖縄の島守(島田叡知事)
 太平洋戦争の末期、昭和20(1945)年1月、沖縄県知事の任命(当時は内務省による官選知事)を受け、敢然と赴いた島田叡さん。
 沖縄は空襲が激しさを増し、米軍の侵攻上陸も必至と見られていた。前任の知事は、防空壕に引き篭もったり本土に逃げて戻ろうとせず、正に職務放棄の状態で、県政や県民の保護に支障を見せていた。
 内務省の内示に接し、赴任すれば死確実の情勢に、任務辞退を勧める親友・周囲の声に対し、島田さんは、
 「私が行かないと断ると、誰かが行かなければならない。私は死にたくないので、代わりに君行って死んでくれ、なんて云えないじゃないか」
と、覚悟の「断」の一字を書き残し、沖縄へ赴きました。
  戦時下というより昼夜にわたる艦砲射撃、空爆が相次ぐ「戦闘下」の沖縄で、県民生活の安全や食糧確保、また県民の本土疎開・避難などに尽くし、島田知事の善政、行動、人となりは、今もなお「沖縄の父」として親しみと尊敬を持って見られました。
 4月に入って大量の米軍が沖縄本島に上陸し、各地で戦闘は激しく、軍も島民にも多くの犠牲者が出ました。軍は言うに及ばす県庁等の役所も、島民と同様に洞窟から洞窟へ避難して渡り歩く中での執務状態で頑張ったが、6月には南部の摩文仁が丘に追い詰められました。遂に県庁組織の解散を宣し、共に死ぬと退去を拒む部下たちを
「生きのびて沖縄のために尽くしなさい」
と無理矢理追い出し、県民の保護に専心されていた荒井退造警察部長と共に濠に留まり、壮絶な最期を遂げられました(行方不明)。島田叡さん、その時45歳(享年)。
 2ヵ月後に迎えた終戦から間もなく、沖縄県民の間から島田知事の遺徳を讃える声が沸きあがり、昭和26(1951)年、県民によって慰霊碑「島守の塔」及び殉職した島田知事と荒井部長の「終焉之地」碑が建立され、今なお遺徳を偲ぶ人々の線香と花は絶えることはありません。
島守の塔(短歌、島守の塔奉賛会、昭和26年沖縄県糸満市摩文仁が丘)
 (正面)『戦没 沖縄県知事島田叡・沖縄県職員 慰霊塔』
 (背面)『ふるさとの いや果て見んと摩文仁の 巌に立ちし 島守の神』
終焉之地碑(昭和26年 沖縄県糸満市摩文仁が丘)
  『沖縄県知事 島田叡・警察部長 荒井退造 終焉之地』
 島田叡さんは、明治34(1902)年、医師の7人姉弟の長男として神戸市須磨区関守町に生まれました。市立西須磨小学校(現在)、県立神戸二中(現、兵庫高校。7回生、大正8年卒)、第三高等学校(現、京大教養学部)、東京帝国大学法学部を卒業し官界に身を投じられました。
 文武両道で、神戸二中から東京帝大まで野球部で活躍。神戸二中時代には第1回全国中等学校野球大会(現、全国高等学校野球選手権大会)に県代表として出場されたこともあります。
(1)昭和39(1964)年、神戸二中の後輩、竹中郁さんの詩をもって、沖縄を向いて手を合わせたような形の「合掌の碑」が兵庫高校に、また昭和46年には三高野球部有志や同期生により摩文仁が丘に鎮魂碑が建立されました。
合掌の碑(武陽会。詩、竹中郁。昭和39年 兵庫県神戸市長田区の県立兵庫高等学校)
 『このグラウンド
  このユーカリプタス
  みな目の底に
  心の中に収めて
  島田叡は 沖縄に赴いた
  一九四五年六月下浣
  摩文仁岳近くで
  かれもこれも砕け散った』

鎮魂碑(第三高等学校野球部有志。短歌、山根斎・三高同期。俳句、山口誓子・三高同期。昭和46年 沖縄県糸満市摩文仁が丘)
 (正面)『鎮魂  島守の 塔にしづもる そのみ魂 紅萌ゆる うたをききませ』
 (背面)『島の県 世の果繁る この丘が』

(2)昭和47年のアメリカの27年間におよぶ占領から、沖縄が本土復帰。当時、本土と沖縄を結んでいた空(伊丹空港)と海(神戸港)の玄関口は兵庫であり、兵庫には沖縄県民が多く住み、兵庫出身の兵士の多くが沖縄で戦死、そして島田沖縄県知事の出身地も兵庫であることなどから、「兵庫・沖縄友愛提携」が結ばれました。
 兵庫の若者の間から沖縄に青少年施設を贈る活動が始まり、県内の少年団や婦人会、街頭募金、企業団体や自治会からの浄財で、那覇市の奥武山総合運動公園に「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」が造られ、その後も青少年交流を中心に県民交流が永く続いています。
(3) 平成14(2002)年には、沖縄の本土返還30周年を期して、兵庫・沖縄県民交流推進委員会、武陽会(島田さんの母校旧神戸二中・旧県四高女・兵庫高校同窓会)、沖縄県人会兵庫県本部の共催にて「島田叡さんを語り継ぐ会」が開催されました。

兵庫沖縄友愛運動 (兵庫県・沖縄県)のピンバッジ
1972年(昭和47年)
(4)そして、兵庫高校創立100周年にあたる平成20(2008)年、島田さんの座右の銘
『断而敢行鬼神避之(断じて行えば鬼神もこれを避ける)』の顕彰碑が兵庫高校及び摩文仁が丘に建立されました。
顕彰碑(武陽会 神戸二中兵庫高校同窓会百周年記念事業。筆、井茂圭洞。短歌、伊藤陽夫。平成20年 沖縄県糸満市摩文仁が丘、及び兵庫県神戸市長田区の県立兵庫高等学校)
 (正面)『断而敢行鬼神避之  島田叡知事座右銘 圭洞謹書』
 (背面)『嵐たへ摩文仁が丘に 香はしく 武陽が原の 花永遠に咲く』
 (5)沖縄本土返還40周年(平成24年。2012年)を迎えて、兵庫・沖縄友愛提携40周年記念“「沖縄の島守」を憶う夕べ”が平成24年(2012年)7月8日(日)、神戸朝日ホールにて開催されました。
  前奏、献奏曲「憶(おもい)」、開会挨拶、来賓挨拶に続き、第1部の「島守への憶い」として、島田叡さんに関するノンフィクション作家田村洋三氏の講演「今も人々の心に生きる島田叡さん」、沖縄県副知事も加わってのフォーラム・ディスカッション「島守への憶い」。第2部の「音で綴る“沖縄への憶い”」では、創作エイサー神子、兵庫高校OB吹奏楽団、合唱団ユーカリプタス、鈴木一郎(ギター)と寺島夕紗子(ソプラノ)の「さとうきび畑」は圧巻でした。
  なお、(財)島守の会によって、行方不明であった島田叡さんの終焉の地の調査が進み、2012年末には批定できる見込みとの報告が田村氏より披露され、みんなの期待が一段と高まってきました。
(6) そして、2013年3月22日、23日、捜索活動の中心となっていただいていた那覇市の(財)島守の会の方々に兵庫高校OBの武陽会メンバーが加わり、島田さんが消息を絶った地点、糸満市の摩文仁に立つ県立平和祈念公園の裏手に広がる密林に踏み入り、草木の生い茂る山道、一歩でも踏み外すと海に転落する崖縁の道を辿り、濠の中などを捜索しましたが、遺骨や遺留品などは見つかりませんでした。
(7)2013年6月5日に武陽会が「武陽人100年の集い」を母校で開催、第14 代最高裁判所長官山口繁氏(38 陽会)が「至誠の人-戦前最後の沖縄県知事島田叡」と題して記念講演をいただきました。沖縄県立那覇高校(沖縄二中)の城岳同窓会と、兵庫高校の武陽会と、「城岳・武陽至誠友好交流協定」も結ばれました。
(8)戦前最後の沖縄県知事の島田叡さんをドラマ化した、TBSの『テレビ未来遺産“終戦”特別企画報道ドラマ「生きろ」~戦場に残した伝言~』が2013年8月放送されました。
  TBS報道局の制作プロデューサーは武陽会(64 陽会)出身で、ドラマタイトルを「生きろ」~戦場に残した伝言~としたのは、沖縄県庁が米軍に追われ、最後に県庁の機能がなくなった時に、島田知事は全職員を集め、県庁は解散するので、君達は夜陰に紛れて逃げろ、自分は警察部長と二人で残る。県職員に対し、逃げて一人でも多く生き延びて、将来の沖縄のために尽くしなさい、と伝え続けた島田知事のメッセージからきているようである。
(9)2014年2月にも、「島守の会」のみなさんと「武陽会」が協力して有志約20名が参加。糸満市の摩文仁に立つ県立平和祈念公園の「平和の礎」裏手の密林内を、数班に分かれて島田さんの遺骨を捜しました。今回も残念ながら見つけることはできませんでした。困難な捜索活動ですが、捜索を続けることで兵庫と沖縄が手を取り合って島田知事の功績が広く伝わることに繋がることが期待されます。
 また、島田知事の功績をたたえて、顕彰碑と、旧制中学校の全国大会でも活躍された「少年野球」のために野球場(「島田球場」)を那覇の県営奥武山公園に整備しようという活動もスタート(KOBE三宮・ひと街創り協議会」と「ザ・ファースト」)しています。
 
(10)「兵庫高校ホームカミング・ディ2014」が武陽・ゆ~かり館(兵庫高)で2014年6月7日に開催され、2013年8月にTBS系で放送された報道ドラマ『生きろ』~戦場に残した伝言~が上映され、担当されたTBS報道局プロデューサーだった藤原康延氏(64陽会)に「語り継ぐべき人“島田叡”」の特別講演をいただきました。 
(11)同じく8月には、このドラマの取材班が島田叡知事のことを本にまとめられました。なお、これまで島田叡知事の主な関係図書は次のとおりです。
『10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡』
ポプラ新書
(TBSテレビ報道局
『生きろ』取材班)
ポプラ社
「沖縄戦に散った“最後の官僚知事 島田叡”の生涯」
(九鬼隆幸)
『新潮』
2014年7月号
『沖縄の島守・内閣官僚かく戦えり』
(田村洋三)
中央公論新社
『最後の
沖縄県知事』

(中野好夫)
文藝春秋新社
『沖縄の島守
島田叡』

(兵庫県立兵庫高等学校)
兵庫県立兵庫高等学校

(12)県立兵庫高校は、2015年の修学旅行で、沖縄を訪問することにした。島田叡知事没後70年(戦後70年)を機会に、偉大なる先輩の足跡を辿って当時の沖縄での戦争とはどのようであったか何があったのかを学ぶ。資料館や、終焉の地摩文仁の丘などを訪れ、島田叡知事のことなどを当時のことを知る方たちから話を聞く。(2015年2月)

(13)島田叡知事が最後を遂げられた摩文仁の丘は、糸満市にあります。糸満高校は平成27年の選抜高校野球の九州代表として2015年3月に甲子園にやってきます。TBSドラマ『生きろ』を見たことから、糸満高校野球部は、島田叡知事の母校である兵庫高校野球部と2015年3月16日、あじさいスタジアム北神戸で親善試合が行われました。
 また、6月26日には、那覇市営奥武山(おうのやま)野球場の正面に島田叡知事の顕彰碑(高さ2m)が設置されます。これから、この球場に来た高校球児たちは、この碑に一礼してグランド入りをされるそうです。(2015年3月)
(14)沖縄県の「島田叡氏事跡顕彰期成会」が、2015年6月26日(島田叡氏の命日?=消息不明日)に「顕彰碑徐幕式典」および「兵庫・沖縄友愛懇親会」を開催、兵庫県側からは沖縄で「兵庫・沖縄友愛フォーラム」開催や「兵庫・沖縄友愛交流の集い」に参加する「兵庫県民代表団」を派遣しました。
 詳細は別ページに載せています。右の写真をクリックして下さい。
(2015年7月)


(59)戦後70年沖縄の島守島田叡さんを語り継ぐ
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